故郷の日高・三石町を離れ、進学のため札幌に出てきたのは、30年ほど前。田舎者の私にとって北の歓楽街・薄野(すすきの)はキラキラとまぶしい特別な場所だった。

 

学生時代はコンパにダンパ。バブルだったOL時代は接待の席に呼ばれて、カラオケで座を盛り上げた(おかげでボーナス査定が一気に上がった)。その後、役者を志して入った劇団の稽古場が薄野にあったため、芝居の話に熱が入り、居酒屋で朝を迎えた事も一度や二度ではない。とうとう住み家も薄野エリアになり、地方から帰ってきてネオンが見えてくると、「ああ、ホームに帰って来た~」と安らぎを感じるようになった。司会やナレーションの仕事が減って生活が大変だった時には、偶然出会ったママに誘われて、スナックでホステスとして働いた事もある。薄野の街のいたる所に私の楽しかった思い出や、ほろ苦い思い出が残っている。

 

そして、人生の折り返し地点を過ぎた今、あらたに薄野との縁ができた。鴨々(かもかも)川のほとりにひっそりと建つ、築90年の古民家ギャラリー「鴨々堂」。ここを拠点とする「一般社団法人かもテラ」が主催する、「中島公園・すすきの 名所を巡るツアー」のガイドを務めることになったのだ。
 

ツアーのひとつ「薄野ナイトツアー」では、鴨々川の流れに沿って歩きながら、薄野に点在するお寺を巡り、薄野遊郭の痕跡をご紹介し、かつて料亭と芸者さんで賑やかだった仲小路をご案内する。

 

開拓使が置かれて間もない明治4年、狐の巣穴だらけで鹿や狼がうろつく原野に作られた薄野遊郭。大変な賑わいをみせたが、遊郭の中で働く女性たちには過酷な環境だった。遊郭を囲むように建てられたお寺は遊郭で働く人たちの心の拠り所となっていく。

大正時代になると人口が増え、電車が通り、邪魔者扱いされはじめた遊郭は薄野から姿を消す。その後、薄野は大戦を経てオリンピックを迎え、全国的にも注目される北の大歓楽街となり、やがてバブル、バブルの崩壊と、時代と共にその姿を変えてきた。いまでは薄野という地名は残っているが、その地名の由来となった薄野遊郭がどこにあったか知る人は少ない。

 

ガイドになるために、薄野の歴史を中心に勉強をした。ネオン輝く街角に、鴨々川の流れに、お寺の境内に「この土地で何とか生き抜いてみせる」と決意した人たちの痕跡が、人知れず残っていることを知った。そして、厳しい開拓時代を乗り越え、未来を夢見た先人たちの想いが、私の中にも多少なりとも引き継がれているのだということに、誇りと勇気を感じた。歴史を学んで知ったことを、実際に街歩きをしながらたくさんの人に伝えたい。微力ではあるけれど、この薄野で昔と今をつなぐ街の語り部として、この活動を長く続けて行くことができたら···そんな思いが強くなった。

 

来年2018年は、北海道に開拓使が置かれてちょうど150年。歴史に思いを馳せるには、ちょうどいい節目を迎える。そして私は自分自身の思いと先人の想いを携えて、キラキラ輝くネオンの中、お客様と一緒に薄野の歴史をさかのぼるタイムトリップに出かける。現在の風景に昔の街の様子がオーバーラップしていく。

 

「昔の人もこの柳を見つめていたかもしれないですね···。」

 

鴨々川のほとりに立つ大きな柳の木に目を向けた瞬間、風にそよぐ葉の下に鮮やかな着物を着た御姐さんの姿が、一瞬見えた気がした。

 

 

(絵 / Midori Kambara )

 

 

 

磯貝圭子(いそがいけいこ)

 

俳優・ナレーター・司会者

 

新ひだか町三石出身。

会社勤めの後、フリーの司会者、ナレーター、レポーターとして活動。その後、「札幌座」所属俳優となる。これまで札幌座の主な作品や、韓国・ハンガリー・ルーマニアでの海外公演に出演。小、中、高、専門学校での演劇ワークショップも数多く行っている。特技は太極拳と演歌を歌うこと。

2017年より、これまで名乗っていた「宮田圭子」から「磯貝圭子」に改名。

「中島公園・すすきの 名所を巡るガイドツアー」の詳細はこちら http://kamokamogawa-nostalgia.net/

 

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