

渡邉卓也(わたなべ たくや)
寿司職人
1976年7月北海道ニセコ町生まれ。
札幌の鮨店からキャリアをスタートし、和食店の料理長を務めたのち、28歳のときに独立。自由な発想で創った日本料理を提案する「TAKU円山」、京都の赤酢を使った酢飯で握る「田久鮓」、BAR「Le Salon SaU」、蕎麦と和食「黒むぎ」を札幌市内に4店舗を展開。
2012年お店は後進に引き継ぎ自身はParisへ。
2013年1月にルーブル美術館があるパリ1区、サントノーレ通りを少し入った場所に「仁 JIN」をオープン。
2014年ミシュラン1つ星を獲得。
2012年1月、ロスでの出店オファーとマーケティングを終えてそのままParisへ向かった。
初めて着いたParisのメトロの駅でいきなり友人がスリに遭い、衝撃のスタートだった。
2011年。
札幌の店舗も軌道に乗り、スタッフも育ってきて、「自分がこれからの夢を実現させる為には何をしたらよいか?」なんて全く考えておらず、たまたま始めたTwitterがキッカケだった。
「Parisで寿司屋やりたい人いない?」のつぶやきに、「やりたい!」とリツイートしたのが始まりだった。
年明け1月、先ずはロスに視察に飛んだ。
10年ぶりのロスは相変わらず長閑な雰囲気で、働くと言うよりはバカンスで訪れたい街だった。
10年前感動したロスはロスのままだったし、ロスのレストラン事情やマーケットを知った事でより早くParisでの出店の決断をし、空港へと向かった。
初めてのフランスは甘酸っぱい香りと暗くて寒い夜、いまでもその香りと光景を鮮明に覚えている。
人生を賭けて来たと言った気負いなどは全くなく、札幌の時と同じスタンスだった。
10日間のParis滞在だったが、2日目に人生において運命的かつ必然的な出会いがあった。
そして二つ返事でParisへ渡る事を決めた。
Parisに来て今まで以上に人との出会い、繋がりが大切であると同時に先ずは行動。行動しなれば誰かに出会う事もないし、何も始まらないのが現実。
もちろん運命やタイミングもあるが、自分から行動しないと流れは掴めないと思う。
2012年11月渡仏。
「お店をスタートしてから色々苦労されたんじゃないですか?」と良く質問されるが、僕にはそこが楽しかった。
もちろん簡単ではないが、お魚屋さんを自分で探す事から始まった。
札幌で普通にやってた事をリセットして、ゼロから始めた。
冷蔵庫の無い時代からお寿司屋さんはあって、工夫を重ねて今の寿司屋があると思う。
お寿司屋の経験がほとんどない僕にしたら、苦労も全てが新鮮だった。
誰も知らない魚屋さんで買い物をして、おろして塩を当てて、〆て、煮て。
昔の職人さんはこうやってやってたのかな、と考えるのも好きな時間だった。
日本の文化をParisで伝えるなんてきれいごとを言っていたが、時間が経つとフランスには最高の食材が沢山ある事を知った。
フランスは日本からのお魚の輸入が出来ないので、ヨーロッパの食材を使い地産地消を突き詰め、お魚の手当てや寝かせる事を繰り返し、そこに新たに得た知識とスキルを重ねてフランスでしか出来ないお寿司を造った。
良い結果が出た事によって、お客様よりお魚屋さんの食材への意識が変わった。
ただ情報が早い時代だから、逆に日本のお寿司屋を見て自分の身の丈以上のオーラを出して反省した時期もあった。
修業なんて時間や長さじゃないという考えもあるけど、やはりきちんと精神修行してない分、人間的に、考え方に貧しい部分が出た事もあった。
しかし、僕にはアドバイスや軌道修正してくれる方やパートナーがいた。
Parisに居るからこそ出会う事の出来る日本を代表する企業の方達や、日本のトップシェフ、フランス人シェフ達にプライベートでも可愛がってもらい、時間を共有させて頂ける事で変われる自分もいた。
そんなParis生活もちょうど5年。
運とタイミングも味方して、やって来た事に結果も出て充実した日々を過ごしている。
ただ、札幌を離れた5年前と同じ様に、自分がこれからの夢を実現させる為には何をしたらよいかなんて全く考えていない。
自分自身が行動する事だと、5年前の自分と重ねている。
頑なに自分達のスタイルを変えないフランス人とトラディショナルな街Paris。
そこで北海道で培った柔軟さと地産地消を武器にお料理の美味しいさ、いや、レストランの楽しさを存分に感じてもらいたい。
Parisに来た時と同じ気持ちで、気負う事なく自分らしく、北海道の開拓者の気持ちで人との御縁を大切に進んで行きたい。
( 絵 / Midori Kambara )