

石橋嵩文(いしばし たかふみ)
漁師
札幌市出身、1982年生まれ。
北海道の現役漁師。17年のキャリアをもつ。
18歳から水産業界に入り、新ひだか町の鮭鱒定置網漁業の漁師として毎朝沖に行き、水産加工および加工食品の販売も行っている。
冬はスキーのインストラクターとして、主に小学生などを対象としたレッスンをしながら、スキーを通して自然の中で遊ぶ事やチャレンジする事の大切さも教えている。
鮭の白子を使った環境ビジネスにも関わり、第21回北海道加工食品コンクールで札幌市長賞を受賞。
「食を通して愛で人々をつなぐ」という自身の志が形となった、みんなで創る家族参加型のイベント「おもてなしBBQ」を開発し、自身が獲った鮭と一緒に全国で開催している。
今年35歳。漁師になって17年。
幼少期はお坊っちゃんで、外車、別荘、海外旅行など何不自由無く育っていました。
15歳の時に親が離婚し生活がまるで変わり、周りに居た人達も自然と離れ…、
「自分には何も無いな。」
「自分は何も出来ない。」
と自分の無力さを知りました。
18歳になり、当時の自分は将来の事をいろいろ考えながら、15歳でひとりっ子母子家庭になったので、まずは自分の基盤を作る為に自立しようと思いました。
が、当時「自分は何をしたいのか」「自分は何が出来るのか」すらも分からなかったので、とりあえず自分が好きな事や、やりたい事をひたすらノートに書いて、その中で本当に自分が好きな物や妥協出来ない物にだけに○を付けました。
その時○を付けたのは、
<スキー><釣り><自然><スーツを着ない仕事>
いずれも大好きな北海道で自立できそうな仕事ばかりです。
そして、結果的に『鮭漁師』という道を選択しました。その理由は、地球の70%は海で、日本は島国で海に囲まれていて、経済水域が世界第6位の水産大国。その中でも北海道は水産資源が豊富で、水産業が盛んだと思ったから。
さらに、鮭鱒の漁期は4~7月と9~12月の間なので、1~3月と8月は仕事が休みとなり、漁師をしながらでも春夏秋は渓流釣りを楽しみ、冬はスキーができると考えたからです。
こうして、NY同時多発テロ発生当日の2001年9月11日、漁師としての自立を目指し、18歳の自分は実家を飛び出して、叔父が営む水産会社に就職する為、新ひだか町(当時は三石町)に移り住みました。
漁師町に来てみるとまるで別世界。お坊っちゃん育ちの自分の知らない世界が、そこにはありました。
漁師になる人は、その親が漁師をしている人が多いです。
自分は札幌で生まれ、漁師の世界とはかけ離れた都会のお坊っちゃん育ちだったので、ほかの見習いの人たちよりも、仕事に慣れるまで時間がかかったと思います。
先輩の漁師達には「お前は3日で帰る」と言われ、最初は船酔いでご飯が食べられず、3ヶ月で13キロ痩せた事もありました。
それでも、徐々に仕事を覚え、最初の漁期を終えて札幌の実家に帰る時、漁師の仲間達からお土産を沢山貰い、「また来年も来いよ!」と言ってもらえた時の喜びは今でも忘れません。
毎朝5時に出港し、網を引っ張る時はみんなで力を出し合い、助け合います。漁師の仕事は毎日危険と隣り合わせで、海の上では日々助け合いの連続なのです。
陸にあがっても、助け合いの気持ちは変わりません。お客さんが来たら必ずお土産に魚を渡したり、漁師同士でも海産物を気軽に物々交換したり、大漁だと水揚げを見に来ている人達に魚を分けてあげたり。
小さな漁師町には、細かい事は気にしない、お金の繋がりではない一期一会を大切にした、人と人が助け合う器の大きな義理人情の心温まる環境がありました。
自分を受け入れてくれたこの町に何か恩返しが出来るとしたら、仲間達と毎朝沖に出て、海産物の鮮度を大切に、自分達が獲って来た魚や、新巻鮭や醤油いくらや鮭飯寿司などの加工品を、沢山の人達に食べてもらう事だと思います。
来年で漁師18年目。人生の半分を漁師として生きた事になります。
小さな漁師町には、人生を豊かに生きるヒントが隠されている。
僕はこれからもずっと、日高の海と一緒に暮らして行くでしょう。
( 絵 / Midori Kambara )